我が家の掛け軸

大城香菜

我が家の床の間には掛け軸がかかっている。
聞くところによると、代々家に伝わるものらしい。立派な家ならまだしも至って普通の家の中で、はっきり言ってこの掛軸だけが浮いている。掛け軸は山水画だった。
川には小舟が一艘浮かんでおり、翁が竿を持って操っているようだった。川には霧がかかり、近くには茅葺きの屋根らしきものが見え、遠くには山が霞んで見えてなんとも風流な絵だった。
小さな頃から気になる存在で、父親にも何度も尋ねた。返ってくる答えは決まって
「うちに代々伝わるものだ。」その一言だけだった。何度聞いてもそうだった。子どもの頃は好奇心も旺盛だったが、そのうち尋ねるのを諦めた。我が家の床の間には掛け軸が変わらずにあるだけだった。

私は大学生になり家を離れた。とは言っても家から電車で一時間程のところだった。大学4年のある夏の日の夕方、父親が珍しくアパートへやって来た。部屋には夕日が眩しいくらいに差し込んでいた。部屋は冷房が効いているとは言い難く、私は冷蔵庫からビールを2本取り出すと、1本を父へと渡した。
「どうだ、元気にやっているか?」ビールを空けながら父が尋ねた。
「今どきのアパートは立派なもんだな。」
父親は部屋を見渡しながらビールをグビリと飲んだ。
「珍しいこともあるもんだね。アパートに訪ねてくるなんて。」
私はビールをグビグビ飲みながら父に問いかけた。
「いや、お前に頼みがあって。」
そう言うと、おもむろに持ってきた風呂敷を畳に広げた。
「実は母さんと1週間ばかり旅行に出かけようかと思っている。暫く忙しすぎたから、ちょっと息抜きもしたくて。1週間も家を空けるのは初めてだから、心配なことがあって。ちょっとお前に頼みたいんだよ。」と父は言った。
私は畳に広げられたものを見て少し驚いた。
「こっちはのんびりしているから大丈夫だけど、これって、家に飾ってある掛け軸だよね。」と私は訝しげに尋ねた。
父は黙って頷いた。それから暫くなんと言おうか迷っているようだったが、一気にビールを飲み干して言った。
「お前も知っているように、これは我が家に代々伝わる掛け軸だ。私も父親から受け継いだ。詳しいことは、まぁ今度ゆっくり話すとして、この掛け軸を家に置いて行くのが心配なんだよ。1~2日ならまだしも1週間だ。何かあったら大変だからな。お前の都合もあるだろうが、不在の1週間、これを預かってもらえないだろうか。」
私は驚いた。「え?これって、そんなに高いものだったの?」
そう、そんなに高価なものだと思っていなかったのだ。
そう言うと父は笑って「値段の話ではない。我が家に代々伝わるものだからな。私の代でどうにかなってしまうと、ご先祖様にも申し訳ない。私の跡を継ぐのはお前になるだろうから。どうだろう。預かってもらえるか。」
父に頼み事をされることなど、今まであっただろうか。私は迷わず「もちろん。」と頷いた。父は安心したように言った。
「頼んだよ。もうすっかり暗くなったな。腹が減ったからご飯でも食べに行こうか。」ということになり2人でご飯に出かけた。

さて、食事も終わり、父と別れて私は一人家に戻った。
畳には父が置いていった掛け軸がそのままになっていた。どうしたものかと悩んだが、床の間はないとはいえ、せっかく畳の部屋なので少しは風流な気分を味わおうと、壁にフックをかけてその掛け軸をかけることにした。部屋は少し狭いものの、なかなか良い感じである。私はゴロリと横になって掛け軸を眺めた。昔から見ていたものではあったが、掛ける場所が変われば新鮮に見える。家で見慣れていたはずなのに、なんとなく不思議な感じでその掛け軸をまじまじと見つめていた。

掛け軸を預かって3日たった頃、いつもと同じようにゴロンと横になって掛け軸を眺めながらビールを飲んでいた私はふと、黒い点があることに初めて気づいた。掛け軸の左下の方だった。「あれ?こんなところに黒い点があっただろうか?」少しの違和感を覚えたものの、まあ古いものだし、きっと前からあったのだろう、と深く考えずそのまま眠りについた。

5日目の夜である。いつものごとく、寝転びながらビールを飲んで本を読んでいると、ふっと気配を感じた。振り返るともちろん、そこには誰もいない。あるのは掛け軸だけ。私は少し怖くなった。まさか幽霊…とか?いや、いや、そんなことあるわけないか。
と浮かんだ考えを即座に否定しながら、だがしかしだ。
私は掛け軸の正面に座り直して、まじまじと見つめた。そして気づいたことがひとつ。2日前に見つけた黒い点が大きくなっているではないか。近づいて見ると、最近新しくできたようなものではなかった。まるで昔からありましたといわんばかりの黒い点だった。不思議に思って、黒い点を触ってみると、何の手応えもなかったのにポロッと剥がれ落ちた。「え…??」驚いて拾い上げるとアズキほどのサイズだった。父親から預かった大切なものだ。くっつければ元に戻るかもしれないと、黒い点が剥がれ落ちたところを見ると、小さな穴が空いている。
その穴を触ってみると、少し冷たい空気の流れを感じた。いや、まさかと思いながら、その穴をもっと近くで見ようと跪いた。

穴があれば覗いてみたいというのが人の心理だろう。
目を近づけてその穴を覗き込んで見ると、驚いたことに見たことのある景色が広がっていた。そう、掛け軸に描かれている景色と同じだった。一瞬見間違いかと思い、顔を離して掛け軸を見る。さっきと同じ景色だ。もう一度穴を覗いてみた。やっぱり同じ景色が広がっている。しかし、その穴の中の景色が違っていたのは川の水面も、木々も風に揺れ、動いていたのだった。風が木々を揺らす音や鳥のさえずりも聞こえた。私は言葉もなく、しばらくその景色に見入っていた。ビールを飲みすぎたせいだろうか、頭が痛い。これは夢かもしれない。そうだ、きっと夢に違いない。気のせいだ。もう寝よう。私は強制終了をするかのように眠りについた。

さて翌朝である。目を開けると畳にはビールの缶がゴロゴロと転がっている。飲みすぎて不思議な夢を見たのだろう。改めて掛け軸を確認してみると、黒い点はそのままあったものの、覗こうとしても覗くことができなかった。だだの平面。奥行きもなかった。夢だったのだともう一度自分に言い聞かせ、私は大学へと出かけた。

6日目の夜である。明日には旅行から両親が帰ってくるので、この掛け軸を実家へ届けがてら一緒に晩御飯を食べることになっている。さすがに夜になると少しソワソワし始めた。目に入るところに掛け軸があるから気になってしょうがないのだ。明日は実家に返すから先に直しておこうと、壁に掛けていた掛け軸をクルクルと巻いて、父親が持ってきた風呂敷に包んで部屋の隅に置いた。これできっと大丈夫なはず。何も起こりませんように。そう祈る気持ちで今日もまた冷蔵庫からビールを取り出したのだった。

いつものように本を読みながらビールを飲んでいると、微かな物音がした。隣の部屋の物音だろうと気にしていなかったが、徐々に人の声として耳に届いて来た。耳を澄ますとそれは部屋の隅に置いたはずの風呂敷のところから聞こえてくるようだった。
「お~い、お~い。そこに居るのは十三代目じゃろう。挨拶くらいしてはどうじゃ。」
「お~い。十三代目、聞こえておるのじゃろう?」
十三代目とはまさか私のことだろうか。父親からは何も聞いていない。
その声はこちらが返事をするまで話しかけるのを止める気配はなかった。
「十三代目、ひとまずこの掛軸を広げておくれ。」
私は意を決して風呂敷から掛け軸を取り出し、畳に広げて見つめた。描かれている絵はいつもと同じだったが、何かしら気配を感じる。今朝確認した黒い点からは風が吹いてきているような気がした。確かめようと顔を近づけてその黒い点を見つめてみると奥には穴が広がっていた。昨夜と一緒だ。私は恐る恐るその穴らしきものを覗き込んだ。
するとやはり、そこには昨晩夢だと思っていた掛け軸の風景が広がっていたのだった。
違っていたのは、穴の目の前には小舟に乗った翁がいたのだった。掛け軸と同じ姿の翁だった。その翁は私を見てニコリと笑った。
「お主が十三代目じゃな。なかなか良い顔をしておる。どうじゃ、こっちへ来て酒でも飲まんかね?聞きたいこともあるじゃろう。」
あろうことか掛け軸の中の世界へ来いと誘いをかけてきた。
いや、いや。その中に入れば命を取られるとかそういう仕掛けではないのか?
そもそもどうやって掛け軸の中に入る?頭に浮かんできた山ほどの疑問を言葉にできずにいると、翁は「そう驚かんでもよい。こちらに来たからといって死ぬわけではないから安心するが良い。どうじゃ、ツマミには川で釣れた魚もある。」と更に誘いをかけてきた。どうしたものかと迷いはしたが、好奇心に勝てなかった私は頷いていた。
翁曰く「掛け軸に両手をついて目を閉じるのじゃ。そしてゆっくりと10数えるだけで良い。」私は言われた通りに大人しく目を瞑って両手を付いて10数えた。

「目を開けてよいぞ。」翁の声がすぐそばで聞こえた。目を開けると庵のような場所にいて、目の前には囲炉裏があった。茅葺屋根のようだから、掛け軸に描かれている家だろう。翁は囲炉裏で魚を炙っていた。そして徳利(とっくり)を取り出すと勧めてきた。
「どうじゃ、驚いたじゃろう。ワシは掛け軸の中からお主の様子を見ておったからな。酒が好きなところはワシと一緒じゃ。」翁は笑って言うと、お酒をグビグビと飲んだ。
「ところであなたは?もちろん掛け軸は小さな頃から目にしていたのでそれに描かれている人物だということはわかるのですが…。」私は翁に遠慮がちに尋ねた。
「ワシがこの掛軸を描いたのじゃ。売れない絵描きだったが、寝食忘れて没頭し狂ったように絵を描いた。周りからはおかしくなったと思われていた。この絵を描き終わったらいつ死んでも良いと思うぐらい、ワシはこの絵に没頭した。そして描き上げたところまでは覚えているが、そこで力尽きたのじゃろう。暫く記憶がなかったが気がつくと、自分が描いたこの絵の中にいたのじゃ。」そう答える顔は狂ったように絵を描いた頃の顔が想像できないほど穏やかだった。
「そうでしたか。」私は静かに頷いた。信じがたい話ではあるが、こうして自分も今ここにいるのだ。翁はまた続けた。
「私が心血を注いだ絵だったが、これを描いてそのまま命尽きたこともあり、縁起の悪い絵として長らくぞんざいに扱われて人から人へと持ち主を転々としていた。そんな時じゃった。縁起の悪いと言われていたこの絵をお主の先祖が手にし、きれいに手入れをして大切にしてくれたのじゃ。もう長いこと居心地よく暮らしている。人恋しくなる時にはこうして気ままに、お主たちを呼び出して酒の相手をしてもらっているというわけじゃ。さあ、さあ、飲め、飲め。」翁はそう言って酒を勧めてくる。
翁が語る話はどれも面白く、絵のこと、先祖のこと、ここでの暮らしなど尽きることはなかった。話と共に酒も進み、囲炉裏の周りには徳利がゴロゴロゴロと転がっていった。

翁と語らい、大いに酒を飲んだことは覚えている。目が覚めると、私は自分の部屋の畳に転がっていた。あれは幻だったのか。しかし、頭はガンガンと二日酔いの症状を示し、部屋の中は普段飲まない日本酒のような匂いもしていた。服からは魚を焼いた煙の匂いもした。あれは現実だったのだ。ひどく痛む頭を抱えながら私は納得した。翁とは話しても話し足りないくらいだったが、また会えるような気がしている。
開いたままの掛け軸には黒い点が残っていた。

父親が私に掛け軸を預けた理由はこういうことだったのだろうか。聞きたいことが山積みだった。今日は両親が旅行から戻ってくる日だ。どう話を切り出そうか、私はソワソワしながら朝支度を始めたのだった。