ちょうだいおじさん

ベノム三浦なおこ

1.
 ちょうだいおじさんの存在を知ったのは、梅雨時の津屋崎に引っ越してきて1週間もたたない頃だった。
近所の人たちの溜まり場である王丸屋でそれぞれが持ってきたおかずをつつきながら一杯やっていた時のことだった。中村さんがそろそろ帰ろうと言うのになかなか言うことを聞かない幼稚園の娘に、ほろ酔いの薄赤くなった顔で
「言うこと聞かなかったら『ちょうだいおじさん』にもらってもらうぞー。」
と言った。その娘は隣の部屋から障子に穴を開けてこちらを覗いていたが、ちょうだいおじさんと聞くと「いやだー。」と半泣きで出てきた。
ちょうだいおじさんと言うのが実在する人物で、地域に伝わる妖怪の類ではないとわかったのは、その時に周りにいた人達が、ああ、あの人のことか、と合点がいったような半拍置いた笑いが起こったからだった。
「画歩(カクホ)もそのうちなんかちょうだい言われるけんね。一人暮らしやけん特にね。」

 その日から、実際に本人に会うまで2週間とかからなかった。古民家が並ぶ津屋崎の千軒通りを、降ったり止んだりの雨の間を縫うように、向こうから小太りの70歳ぐらいの男性がゆっくりゆっくり歩いてきた。髪は短髪白髪で、サイズの小さいポロシャツはぽっこり出ているお腹をあらわにしていた。ジャージのズボンに下駄を履き、両手は蝶々を捕まえた時のように胸の前で握られていた。首をずっと傾げてるのは癖なのだろう、眉をハの字にした困り顔によく似合っていた。ちょうど王丸屋から店主の明ちゃんがひょっこり出てきてその男性に声をかけた。
「呉さん、傘ないと?ウチの傘持ってっていいよー。」
30歳になったばかりの明ちゃんは年上の人には誰にでも敬語だが、この呉さんという方には敬語を使っておらず、しかしとても優しい口調だった。
「傘はもっとらん。雨降るやろか。なごみまで行くっちゃけど、雨降るやろか。」
「どうかね。この傘持ってっていいよ。」
「傘?どうやって開けると?開けきらん。」
「こうやって開けるとよ。開けきらんやったら開けたまま持っていきー。」
「傘は持っていかん。傘はささん。」
「でも雨降られたら風邪引くやろ?」
そういう明ちゃんの問いかけが聞こえてるのか聞こえてないのか、唐突に
「なんかいらんもんない?なんか食べもんが欲しい。なんかない?」
ははーん、この呉さんがちょうだいおじさんだな。
「この傘いらんけん、持っていき。」
明ちゃんはちょうだいおじさんがどうしても心配な様子だった。
ちょうだいおじさんは困った顔のまま傘を持ってゆっくりとなごみの方に歩いていった。

 その後は津屋崎のあちこちでちょうだいおじさんを見かけた。誰の家にでも行くらしかった。ウチにも何度かきた。ちょうだいおじさんという隠れたニックネームだが、実際「ちょうだい」とは言わない。「なんかいらんもんない?」が正解だ。だからといって物をあげようとしても手には取るものの「これいらん。」といって本当に持って帰ることはほとんどない。それでも、「いらんお菓子ない?」「いらん靴ない?」「なんでもいいけん、いらんもんない?」と聞く。この話だけだと、面倒な相手に聞こえそうなのだが、面倒に思ったことはなかった。悪い人ではないのは手に取るようにわかったからだ。
話しているうちにかなり打ち解けたと思ってしまうが、違う場所で出会って挨拶すると「だれかいな。」と全く覚えてなくて少し寂しく思うのだった。

2.
 そんなちょうだいおじさんを私は密かに尊敬していた。というのも、彼は実はすごい芸術家なのではないかと思っていたからだった。ちょうだいおじさんの家はウチからほんの5軒先だった。それがわかったのはある夕暮れ時、浴衣で津屋崎をカランコロン散歩していた時だった。表札が何個も出ている家があった。表札と言っても、かまぼこ板のようなものからいびつな形の木の切れ端まで、ありとあらゆる形の木に「呉」「呉」とマジックで何度も何度もグリグリと強い筆圧で名前が書かれてあるものだった。その無数の表札の集まりは、既成概念にとらわれず、恐れがなく、ちょうだいおじさんがこれまで嘘偽りなく生きてきたことの集大成だった。文字の太い部分、細い部分のバランスも絶妙だったし、表札の配置の構図の取り方も複雑で、こんなバランスの取り方があるのかと驚愕した。その表札群はもしかしたら芸術作品として大変素晴らしいのではないかと思い、前を通るたびに見とれていたのだった。

 実際、私は芸術家には並々ならぬ尊敬の念を抱かずにはいられない性分だった。『物語スコーレ』という物語のクラスを受講し始めたのはその頃だった。物語なんて書いたこともない私が、何故そんなところに行くのか自分でも不思議だった。文法や決まりごとを習う場所なのかと思ったら、予想は完全に裏切られた。毎回与えられた課題をもらい自由に書いてくる。そしてみんなで発表し合いながら先生のお話を聞く。そのお話がとにかくすごい。先生は遥か上空を飛んでいて、そして大きな宇宙を見ながらお話をしてくれる。私は話を聞きながら、時々「え⁉︎」とすっとんきょうな声を出す。

——物語が完成したら書き直せ。原型がなくなるほどに書き直せ。例え元の物語よりも悪い作品になったとしても書き直す人間であれ。

ー物語を書いて自分と世界を対決させろ。そしてその対決に自分は必ず負けなければならない。

バリバリと私自身の殻が破れていく音が聞こえた。私は、先生ほど深く芸術を信じている人を見たことがなかった。もしかしたら先生は芸術そのものなのではないかと思うほど先生と芸術は一つだった。それは私にとって心底の喜びだった。
「そうか。私は芸術を心から信じたかったんだ。」

3.
 ある日の夕方、福間駅から津屋崎へのバスの中、空を紅く夕日が染めるのを眺めていると、後ろから「これなん?」と聞き覚えのある声が聞こえてきた。ちょうだいおじさんだ!私から2つ後ろの席に座って、通路を挟んだ席の女子高生のカバンからぶら下がっている万華鏡のキーホルダーを指差し「これなん?」と何度も聞いている。「これなん?覗けると?」女子高生は恥ずかしそうに顔を違う方に向け、できる限り無視していた。たまに横目でちょうだいおじさんを睨み付けた。

 津屋崎の町の中ではみんなに声かけられるちょうだいおじさんだが、一歩町の外に出るとこんなに嫌な顔をされるのかと驚いたが、この時と同じように無視されている光景をそれから何度か見かけることとなった。一度はとなり町の税理士事務所。一度は駅前のスポーツジム。受付の女性をまっすぐに見つめ何か話しているちょうだいおじさんとそっぽを向く女性がガラス越しに見えた。その姿はまるでちょうだいおじさんが見ている社会がそのまま凝縮されているようだった。私の尊敬する大芸術家を結局社会は無視するのだ。それは同時に私の心を切り刻んだ。

 最後は最近できた大型スーパーだった。男子高校生アルバイト店員に、ちょうだいおじさんは何度も「これ両替できん?」と何かを差し出していたが、無視され続けていた。私はとても大事な人を馬鹿にされたような気持ちになり、頭に熱く血が昇った。その店員に物申そうとつかつか歩み寄っていくとちょうだいおじさんがくるりと振り返って目があった。
「呉さん。」
「誰かいな。」
私は脱力して
「帰ろ。」と言った。
なんだか情けなくなって、二人並んで肩を落としてトボトボと歩いていたが、津屋崎に近くなると道路に水を撒いていたおばちゃんが「おかえり!」と元気に声をかけてくれて少し顔を上げることができた。
視線の先に津屋崎千軒通りの街灯が並んでいるのを見ると、なんだか無性に安心感がこみ上げ、このまま一生ちょうだいおじさんと歩いていてもいいような気持ちになり涙が溢れそうになるのだった。
通りの先に王丸屋が見えた時私は言った。
「呉さん、一緒にお絵描きせん?」
「お絵描き?どうやってやると?」
「紙とクレヨン持ってくるけん、ちょっと待っとって。」
ちょうだいおじさんを王丸屋の土間のテーブルに待たせて、私は走って家から紙とクレヨンを持ってきた。大きな紙を一枚、テーブルいっぱいに広げて真ん中にクレヨンを30本ぐらいばらまいた。
「なん描けばいいと?」
「なんでも好きなもの!」
私は山を描いた。ちょうだいおじさんは紙の反対側に小さく花を描き、その上に雲を描いた。
私は「お花に水をあげましょう。」と言いながら、ちょうだいおじさんが描いた雲から雨を降らせた。ちょうだいおじさんは笑顔になって、その下に傘を差した紫色のさつま芋を描いた。
「なんでさつま芋?」
「わからん。」
そう言って、ちょうだいおじさんは笑った。初めて見る笑顔だった。私は
「風が強いから雨が横から降って、さつま芋が濡れてしまいいますねー。」
と言いながら、さつま芋にかかるように雨を降らせた。ちょうだいおじさんはゴッゴッと奇妙な音をたてながら笑い、さつま芋が雨に濡れないように茶色い壁を描いた。
「あ、ずる!じゃあ、壁に穴を開けます!」
今度は壁に穴を描こうとすると、ゴーッゴーッと笑いながらクレヨンで邪魔をする。どうにかさつま芋に水をかけてやろうと、川やら海やら描く私に対抗するようにちょうだいおじさんは紙いっぱいにめちゃくちゃにクレヨンを走らせ、よだれをだらだらと流しながらゴーッゴーッといつまでも笑った。

どうだ。これが芸術の力だ。私の愛する芸術というものはこんなことができるのだ。

4.
ちょうだいおじさんは、次の日から毎日塗り絵を一枚プレゼントしてくれるようになった。デイサービスで塗り絵をするのだそうだ。5時前に送迎車が呉さんの家に着き、荷物を置いてすぐウチに向かうと5時ぴったりになる。5時の合図の『遠き山に日が落ちて』の音楽と共に、夕日を背に、首を傾げたシルエットが向かってくる。

実際ちょうだいおじさんはよく笑うようになった。私が塗り絵を指差し、「今日はお人形を塗ったんやね。」と言うと「素敵じゃない。」と自分の絵を否定するが、顔はニコニコ笑っている。
「とっても素敵よ。」
「いいや、素敵じゃない。」
素敵じゃないと言いながらも、最初は所々しか塗っていなかった塗り絵もどんどん色数が増え、もっとたくさんの場所を塗るようになり、筆圧も強くなっていった。「塗り絵じゃなくて呉さんの絵も見たいな。」ということもあったが、「描けん。」とだけ言った。

たまに私生活のことも話してくれるようになった。手の皮膚に病気があり、皮が剥けていて、洗濯や皿洗いの時に困るのだそうだ。
「水虫やないと?」
「水虫やない。病院で検査してもらったら、菌はおらんかった。」
ちょうだいおじさんの言い方からそれは本当の事だと確信した。だが、それでもやっぱり無意識に、もしも水虫だったら移ったら嫌だなと思ってしまい、茶色いシミがたくさんついている塗り絵もなんだか気になって、塗り絵を受け取る時に無意識に手に取る場所を一瞬選んでしまったりもした。

5.
 津屋崎には地元の人が大切にしている波折神社という神社がある。三百年以上続く津屋崎祇園山笠は狭い路地を屋根より高い山が練り進み波折神社に奉納される。今年は波折神社の八百年祭で町は多いに盛り上がっていた。その波折神社から町をあげての大掃除中に世紀の大発見があった。近所のおばちゃんの話によると、神社の守り神である瀬織津姫が祀られている神棚を王丸屋の明ちゃんが掃除しようとずらしたら、その床の部分に小さな穴があいていた。埋めた方がいいのか、どのぐらいの深さなのか触ってみるとその穴から風が来る。これは思うよりも大きな穴かもしれないと懐中電灯で照らして中を覗いてみると何やら書物が見える。これはなんだと騒ぎになって調べたら、それがどうやら800年前に波折神社ができたときに書かれたものではないかということだった。

それからは連日のようにテレビやら新聞記者やら大きなカメラを持った人やアナウンサーが小さな町のいたるところにひしめき合い、観光客であふれかえった。警察が神社を囲んだ真ん中を研究者らしき人がぞろぞろと本殿に入り、カシャカシャとカメラのシャッター音の中、何やら重要そうな箱を抱えて車に乗って去っていった。その後数週間して次第に観光客は減っていき、テレビも新聞もすっかり津屋崎のことには飽きたころ、波折神社に行ってみると総代が境内の掃除をしていた。あの書物をその後研究者たちが調べてみたら、800年前の津屋崎の人たちの願い事が書かれてあったらしい。と教えてくれた。そしてそのほとんどが『いつまでも波折神社が津屋崎を守ってくれますように』だったそうだ。総代は本当はその願い事をまた元の穴の中に戻したいのだが、どうもそういうわけにはいかなくて、不本意ながら博物館に寄贈したとのことだった。でもせっかくこんなことがあったのだから、ただ穴を塞ぐのではなく、その前にこっそり私たちが願い事を書いて穴の中に入れようではないかと耳打ちした。

私は自分の願い事が神社の下に何百年も眠り800年後の人達が見るところを想像してわくわくした。町の中を走り回って色んな人に紙を配り願い事をみんなで書こうと言って回った。800年前の願い事も叶っているからきっと私たちの願い事も叶う。私はなんの願い事を書こうか。

 その時『遠き山に日は落ちて』が町内放送で流れてきた。「5時だ。ちょうだいおじさんが来る。ちょうだいおじさんにも願い事を書いてもらおう。」
家に走って帰っているとちょうだいおじさんもちょうどウチに向かっているところだった。手には今日の塗り絵を持っていて、私を見るとにっこり笑って「はい。」と差し出した。私はその塗り絵を受け取るやいなや、持っていた紙を渡して「あのね、この紙に願い事書いてくれん?波折神社の穴の中に入れるんだって。そしたら神様が叶えてくれるかもしれんよ。」とまくしたてた。てっきりニコニコ笑顔で快諾してくれると思い込んでいたが、ちょうだいおじさんは顔を曇らせた。
「願い事?」
私はこれまでの経緯を説明した。
「どんなことでもいいとよ。夢は大きい方がいいけんね。でっかく行こうよ。ハリウッドスターになりたいとか、宇宙飛行士になって月に行きたいとか、好きなこと書いていいんよ。」
ちょうだいおじさんからどんな夢が飛び出してくるのか、胸弾ませつい興奮した。

ところが、ちょうだいおじさんの顔からは笑顔が消え、明らかに動揺したように伏目がちになった。しばらくの沈黙のあと、困った顔で口を開いた。
「何書けばいいと?」
「なんでもいいとよ。好きなこと。神様の下に埋められるなんて楽しいやん。今度開けられるのは800年後かもしれんよ。ああ、どんな人に見られるんだろうね。もう人ではなくて宇宙人だったりして。」
浮かれる私を横目にちょうだいおじさんはどうも煮え切らない顔で、手にもった紙を見ながら、
「書かん。書いたらどうしたらいいと?いや、書かん。」と書くのか書かないのかわからないことを言う。私はこんなに楽しそうなことをなんでやらないのかと、少し苛立ち始めた。
「書かんの?なんで?なんでもいいとよ。」
私の苛立ちを察したのか、それに呼応するようにちょうだいおじさんも顔が苛立ち始め、「さっきの塗り絵返して。」と言った。
「返すん?なんで?」
「……わからん。」
「描き直したくなった?」
「…………わからん。」
ちょうだいおじさんの顔がどんどんこわばっていく。
「そんな嫌がらんだっていいじゃん。何も怖いことじゃないんよ。ほらあの王丸屋で一緒に絵を描いた時みたいにさ、心を開いて…」
突然ちょうだいおじさんは私から塗り絵をもぎ取った。
「なんよ!」
私は驚いて叫ぶ。
「もういい!」
ちょうだいおじさんは怒って叫んだ。
「もういいってなんよ!せっかく誘っとるのに!」
ちょうだいおじさんはウチに背を向け歩き始めた。
「なんね!呉さんのバカ!」
私はつい興奮して、とうとう大人が大人に使うべきでない言葉を言い放ってしまった。ちょうだいおじさんはこちらも振り向かずに帰っていった。

次の日の朝、私のところにたくさんの願い事が書かれた紙が届けられた。
—陸上でオリンピックに出たい。
—音楽の新しいジャンルを作りたい。
—フランスで絵本を出版したい。
私は
—世界中のアーティストと一緒にライブペインティングがしたい
と書いた。

たくさんの願い事をまとめ、波折神社に持って行く準備をしているとすでに夕方。すると『遠き山に日は落ちて』が流れ始めた。
(ちょうだいおじさんは今日は来ないんだろうか。)
昨日のちょうだいおじさんとの言い争いを思い返し外に出てみた。夕日の差す路地裏には誰も歩いていない。
(ちょうだいおじさん、怒っとるんかな。)
ふとその時、郵便受けに何か入っているのが見えた。
郵便受けを開けてみると、ぐしゃぐしゃになった紙一枚と塗り絵が無造作に突っ込まれていた。
(あ、ちょうだいおじさんだ!願いごとを書いてくれたんだ!)
胸がどきどきと高鳴った。急いで家の中に入り、畳に正座で座ると深呼吸をして紙を広げた。そこにはちょうだいおじさんのぶるぶると震えた字で

—手の病気がよくなりますように

とだけ書かれてあった。

頭を撃たれたような衝撃が走った。私は何を思いあがっていたのだろう。いつの間にか私は、あたかもちょうだいおじさんの唯一の良き理解者、芸術を使ってちょうだいおじさんを救う唯一の救世主かのように勘違いしていた。しかし、私がやったことは、ただ、ちょうだいおじさんを誰よりも深く傷つけただけだった。自分が無意識にちょうだいおじさんの手と触れるのを避けていた行動の数々を思い返した。むしろ、私のような者こそ、ちょうだいおじさんは心を深く傷つけられていた。私はその場に跪き、息もできないほどにとめどない涙を流した。この後に及んで私が流した涙は、自分の犯した過ちに対してではなく「芸術は結局何もできないんじゃないか」という絶望からだった。

ちょうだいおじさんはその日から姿を消した。
「ちょうだいおじさんの手が治りますように。」
そう呟きながらみんなの願い事を波折神社の穴に入れた。

芸術って一体なんだろう。
ある人は愛だと言った。
ある人は悲しみだと言った。
私にとってはなんだろう。もしかしたら、私にとっての芸術とは、中は真っ暗闇の穴のようなものかもしれない。