覗けば聞こえる鈴の音

水野はるか

 泣きった人は晴れ晴れとした表情をする。あらゆる感情を頭や体の中から絞り出すと、心に残るのは秋晴れに似た諦観なのだろう。「最後のお別れ」を済ませていく親族を見ながら絢子は思った。

 晴れ晴れとした表情が並ぶ中、忙しない顔が一つ。世話焼きの伯母は誰が何番目にお別れをするか背後から監督している。伯母のおかげでこんな時でも秩序が守られる。何とも有難いことだ。そう思った絢子はおもわず鼻で笑い、母親に睨まれてしまった。

 最後のお別れを済ませた木箱は、レールに乗せられ運ばれていった。大きな扉が閉じると、親族は三々五々控室に帰ってく。絢子は母親に目配せをすると、大きなコンクリートの平屋を出た。

 自動扉を出た絢子は、喫煙所を探して周囲を見渡した。絢子の目に眩しい光が飛び込んでくる。銀色の灰皿に太陽が反射していた。灰皿の傍で壁にもたれ掛かると、絢子は小さな黒いハンドバッグからタバコの箱を取り出した。蓋を開けてため息をつく。中身が空になっていることを忘れてしまう位には動揺していたらしい。タバコを買いに出るため、絢子は建物に戻っていった。

 遥かな天空に浮かぶ雲の上、護法童子は目を閉じていた。秋の陽光は童子の甲羅をじわりじわりと温め微睡みへと誘う。首の下で組んだ腕から力が抜けていく。

 童子が眠りに落ちる寸前、かすかに澄んだ鈴の音が聞こえた。童子は腕に乗せていた首を持ち上げた。鈴の音に続き、前方の雲に開いた小さな穴から白く輝く帯が顔を出した。帯はゆるゆると螺旋を描きながら、するする上へ上へと昇っていく。  雲上に住まう童子にとって、鈴の音を聞くこと、白い帯を見ることは、珍しいことではない。けれど、涼やかな音色や眩い光に出会うことは稀だった。童子は甲羅にしまっていた短い2本の足を出し、前傾姿勢で体を伸ばすと、穴の方へゆっくりと歩いた。急ぎはしなかった。美しい帯は長く長く続くことを知っていたから。  童子は穴の傍に腰を下ろすと、再び腕に首を乗せ、じっくりと帯を眺めた。白い帯は近づいて見ると、極彩色で絵巻物のようだった。童子は絵巻の物語を一つ一つ丁寧に、慈しむように見つめた。

 白い朝霜の中、小さな小さな男の子を小さな女の子が背負って歩いている。麦畑へ続くあぜ道を歩いている。麦を踏みにいくのだろうか、麦の若葉が揺れている。  絵巻は豊かな緑で彩られる。蚕を飼っているのだろう、少女は畑で桑の葉を摘んでいる。刃物をはめた少女の指がきらりと光る。少女は木々を縫うように進んでいく。

 絵巻は青く高く輝く。晴天の中を花嫁行列がゆく。白無垢姿の花嫁は、その瑞々しい頬を桃色に染め、傘の中を歩いていく。絵巻は桃色に染まる。天からの祝福を一身に受け、赤子が生まれた。湯気をまとった赤子を、女性が見つめる。その頬を涙が伝う。黒い牛が列を成して歩いていく。幾百、幾千、幾万の黒い牛が数珠つなぎに歩いていく。黒い牛たちは雲の向こうに消えていく。

 続いて、黒い列車が走り来て走り去り、走り来て走り去る。小さな染みのような女性の黒い影が、線路に伸びている。金色の稲穂が揺れ、絵巻は煌めく。田畑に挟まれた細い道を銀色の小さな自動車が走る。しわの増えた女性は灰色の建物に向かって走っていく。絵巻に仄明かりが灯る。竹竿に提灯が提げられ、若い男たちが担いでいる。行きは暗い提灯も、帰りには明かりが灯る。絵巻に大きな平屋が現れた。縁側に置かれたかごには、赤、黄、桃、ダイダイ色に、黄緑色に、群青色。目にも楽しい毛糸玉が幾つもつめられている。籐の椅子に座った老婆は、せっせと編み目をこしらえている。 絵巻物から色彩が消え始め、輝きが増していく。絵巻物の終わりが近づいている証だ。童子はまぶしさに目を細めつつ、体を雲に開いた小さな穴に近づけた。ぐっと首を下げて、下を覗き込む。 遥か彼方の地面には、木箱に納められた老婆があった。老婆の身体は彼女の愛した毛糸のような色彩で囲まれている。代わる代わる木箱を覗き込む老若男女。感謝と親愛、惜別を告げているのだろう。鈴の音は澄み渡り、澄み切って、空に溶けていく。絵巻物も、もはや地上から昇ってくることはなく、長い尾を引きながら空の彼方へ消えていった。 童子は姿勢を戻すと、四肢と顔を甲羅に納めた。薄暗い殻の中、童子は久々に触れた美しさの余韻に浸りながら、小さな寝息を立て始めた。

「あやちゃんどうしたの?」

運転席に座って首を傾けたまま動かない絢子、その顔を少女が不思議そうにのぞき込んだ。  タバコを買いに行くだけなのに、他にも色々頼まれてしまった上、暇を持て余した姪っ子まで付いてきてしまった。運転席に座った絢子は目を閉じて首を回した。嫌な音がして首に痛みが走る。勢いをつけ過ぎてしまった。絢子は痛みのせいで、しばらく頭を動かせずにいた。 姪が声を掛けたのは、そんな時だった。絢子は目を開けて少女を見る。

「ちょっと首が痛いの。琴子ちゃん、ちょっと待って、すぐに車出すから」

「大丈夫?」

琴子は絢子と逆側に首を傾けている。大丈夫だから、お願いだからちょっと待って、という絢子の言葉を、琴子は驚いた様子で遮った。

「あれ?あやちゃん、何か音がしない?」

琴子は目を丸くして、車の中を見渡している。絢子はにやりと笑い、首を元に戻した。

「両手で耳をふさいでごらん」

絢子に言われた通り、琴子は小さな掌で耳をふさぐ。すぐに眉をひそめて絢子を見た。

「あやちゃん、耳をふさいでも頭の中に聞こえるよ」

「これ、何?」

「そういうもんよ」

絢子は鼻で笑った。  困惑したままの琴子を無視して、絢子は車のエンジンをかけた。クーラーを全開にして自分の顔に当てる。携帯電話の液晶が何度か光った。伯母が追加の買い物連絡をしてきたのだろう。本当によく気が利く。有難いことだ。

「まだ聞こえるよ~」

琴子は泣き出しそうな声を出している。絢子はもう一度鼻で笑った。

「そのうち消えるから、大丈夫」

絢子はウインカーを出しながら、琴子に話しかけた。琴子が天を仰いだのが気配でわかる。絢子は楽しくなって、ハンドルを戻しながらアクセルを踏んだ。