リュートの恋

黒瀬まり子

 優れた職人の手によって生まれた楽器には、たいてい妖精が宿っているものだ。わたしも、そのうちの1人だ。

 わたしの住処であるルネサンスリュートは、ジュンという口数は少ないが優しい手つきの職人が、ひと冬かけて作り出した。響きの良い音を実現するため、11枚もの細長い板をニカワで張り合わせて形成した、丸びを帯びた壁は、限りなく薄い。住処の中心には、ジュンが懸命に彫りだしたレースのように繊細なローズとよばれる飾り窓が据えられている。この窓を通して室内に降り注ぐ美しい模様の光を浴びながら、音作りの仕上げをするのがわたしの役目だ。
 この、ころんとした住処が音楽を奏でる間、わたしは夢中で踊り、飛び跳ね、軽やかに宙を舞う。わたしの動きと、奏者が弦を弾くことで生まれた振動とが上手い具合に共鳴すると、誰にも真似できない澄んだ響きが生まれるのだ。
 音の響きが止むと、わたしは飾り窓から外をそっとのぞき込む。たいていは窓の背後に奏者の気配を感じるだけだが、先ほどまで澄んだ響きが満ちていた空間は、心なしか雨上がりの後の清らかな空気の気配がある。ほどよく疲れたカラダを脱力させ、ほおづえをつきながらそんな窓の外をのぞく時間は、言葉にはならない充足感に満ちている。
 時々は、外にお客の姿を見つけることもある。
 はじめてリュートを見たお客は、しげしげとローズを見つめ、その美しさにうっとりとため息をつくのが常だ。まるで、その内側にいるわたし自身が彼らを魅了しているような気になれる。
 けれど、一番のよろこびは、わたしたちの響きを賞賛するお客の声を耳にすることだ。そんなときは、わたしは心から得意になって、その日の疲れも吹き飛んで、アンコールに応え、またいつまでも踊っていられるのだった。

 ただ、このところ物足りないのは、奏者が同じ曲ばかりをくり返し練習していることだ。確かに素敵な曲ではある。けれど、毎日、毎日、飽きもせずくり返される演奏は、もう1000回を少しばかり超えたところだ。はじめの100回くらいまでは、新鮮な曲にどんな動きで応えようかと、うきうきしながら全身で響きを感じ、毎回違った呼吸と動きを試していたが、300回にもなるとある程度のパターンができてきた。500回を過ぎたときには、最適の呼吸が見つかり、その時々の奏者のコンディションをつかんで、この曲に合う一番まろやかな響きを実現する動きができるようになった。1000回を超えた今、この曲に関するすべてのことがわたしの無意識の深いところにまで染み渡り、もうこれ以上はないという完璧さでもって澄んだ音色を作りだせるようになった。音楽の神様にだって、きっと、ご満足いただけると思う。

 それなのに、ほら、今日もまた響いてくるのは同じ曲。
 わたしは、即座に最高の響きを作りながらも、ずっと昔に踊ったたくさんの曲を懐かしく思い出した。正直いうと、もうこの曲はおなかいっぱいなのだった。
 けれども、奏者はわたしにとっては神様同様、逆らえない存在。
 わたしは、わたしに与えられた使命を果たさなければならない。

 うんざりした気分になりかけた、そのとき―

 突然、ローズの向こうの明るい空間から、光とともに今まで聴いたことのない音が飛び込んで来た。一定の音量で力強く和音を奏で、わたしたちの響きに重なりあってくる。
 生まれたときからカラダに馴染んだ、弾けては消えていく音の連なりとはまったく違う、新鮮な響き。ハーモニカが何本も同時になっているような重厚な音の重なりがメロディーを奏で、馴染みの曲を豊かに装飾してゆく。
 まるで別の曲のよう!

 わたしはその響きを感じ、わたしの深いところが懐かしさと興奮で、歓喜するのをカラダ中で味わいながら、夢中になって踊り続けた。何度もくり返して退屈していたはずの曲が、全く新しい景色となってわたしを包み込み、重なりあう音に共鳴したわたしたちの響きは、正真正銘、音楽の神様にお捧げするのにふさわしいできだったと確信を持って言える。
 夢見心地のセッションが終了したことに気づいたのは、奏者がリュートを手に立ち上がり、わたしがいる空間が大きく揺れ、ローズから差し込む光が長く伸びたときだった。
 曲の余韻に浸りながら、いつもの習慣で飾り窓まで行き、外をのぞき込む。ふわりと、甘い花の香りが流れ込んできた。空間はいつも以上に清らかな空気に満ち、生き生きとした活気にあふれて、さまざまな色の光の粒子がキラキラと輝いていた。
 その中に、白黒の鍵盤付きの赤い箱を抱えた少年を見つけた。少年はこちらを真っ直ぐに見つめている。
 こんなに真っ直ぐな瞳で見つめられたことがないわたしは、頬がバラ色になるのを感じながら、息をひそめ、じっとしている他なかった。

「アコーディオンもなかなかいいでしょ。」

 少年は輝くような笑顔になると、そう言って、左手でいくつかの黒いボタンを押しながら箱を横に引っ張ると、リズムと共に蛇腹が現れ、そしてまた元に戻したかと思うと、静かになった。
 でも、わたしの胸は、まだドキドキと音を立て、リズムを刻んでいる。

 「アコーディオン。」

 わたしは、愛しい人の名を呼ぶように、そっとつぶやいた。
 少年の持つ楽器には、妖精の気配はない。

 あの音色に、あのリズムに、あの少年に、一瞬で恋をしたわたしは、自分の分身を別の楽器に宿らせることができるという魔法のことを、ふっと思い出した。一生に一度だけできる魔法だ。古くからの言い伝えでは、頭のてっぺんから生えている一本の髪の毛を使い、蝶の形に結んだものを準備する。そして、その蝶を手のひらにのせ、願いを込めて息を吹きかけ、楽器へと送り出すのだ。

 わたしは、一番力強くまっすぐな髪の毛を選び、頭のてっぺんから抜くと、蝶々結びを作り、形を整えた。そして、左の手のひらにそっと置くと、飾り窓の隙間から左手を差し出し、少年のアコーディオンへ向け、祈った。

「どうかどうか、この蝶が、彼のアコーディオンに降り立ち、わたしの分身がそこを住処に、彼と一緒に末永く、音楽の神様にお仕えできますように。」

 その祈りに反応するように、手のひらの蝶が羽ばたき始めたのを見届けてから、静かに目を閉じると、わたしは、やさしく息を吹きかけた。