絶海
ざざ、ざざ、と波の音がする。ざざ、ざざ、ざざ、ざざ、と。
おそらく永遠に繰り返されるであろう海のささやきは、男に何の感情も呼び起こさなかった。
慣れきってしまって何も聞こえていないのと同じになってしまっていた。
ぎらつく日の光の下、どこまでも続く青黒い海。無限に続くかのような弓なりの砂浜を男はとぼとぼと歩いていた。焼けた砂が男の足裏を灼く。
男は歳すらわからぬほど全身まっ黒に日焼けしていたが、その貧相な体からもわかるように漁師の類ではない。
ぼさぼさに伸びた蓬髪、落ちくぼんだ眼、腰にまとわりついたかつては着物だった襤褸布。
男は好きこのんでこの島にいるのではなかった。
南海の孤島、鳥も通わぬ秘境、檻なき天然の牢獄。男は何年も前、ここに流されてきたのだ。
海藻でも打ち上げられてないかと虚ろに波打ち際を見回している男の目に、小さな木片が映った。
拾い上げてみると小さな四角い穴が開いている。指一本やっと通るほどの小さな穴だが、明らかに
人の手で加工されたものだった。どこかで沈没した船の破片かもしれない。
男は木片の穴になんとなく右目をあててみた。なにか目的があったわけではないが、覗いてみて
男は驚いた。毎日飽くほど眺めていたこの海の風景がまるで別世界のように見えたからだ。
男はもう一度穴を覗いてみた。青い海と白い砂浜、それに変わりはないのだが、なにかこの世ではないような印象を受ける。
「わかった。」
男は呟いた。聞くもののないこの島で、男が声を発したのは久方ぶりのことだった。
四角い穴から覗くと、景色に黒い縁取りができる。この縁取りが、見慣れた風景を屏風に張られた絵のように見せているためだ。男はかつて都でさる貴族の館に呼ばれてみた散楽を思い出した。
薄暗い座敷の中から見る、白い砂利が敷き詰められた中庭で演じられている散楽は、すぐ近くでありながらどこか遠い別の世界のような、暗闇に浮かび上がる幻のようにも見えた。
(あれはいつのことであっただろうか)
男は穴を覗いたまま、砂に腰を下ろした。波が足元に押し寄せては引いていく。
穴の向こうにかつての自分の姿が浮かび上がる。格式ばった寺の中で煌めく袈裟をまとい、
大勢の僧侶に傅かれて王のように振舞っている傲岸不遜な男の姿。
(なんという傲慢さだ、まるで修行が足りておらぬ)
不思議なことに、この穴を通してみるかつての自分は、まったくの他人のようだった。あの頃は自分がこの地位にいるのが当然だと思い、それに見合うように振舞っていたはずだったが、こうして幻としてみてしまえば、そこにいるのは単なる思いあがった青二才でしかなかった。
やがて芝居のように舞台が変わり、かつての男の別荘になった。二人の男と額を寄せ合って相談をしている。陰謀を企てているのだ。太政大臣の暗殺計画。男はにやにやと計画の成功後の話をしている。
(こんな穴だらけの計画、失敗するに決まっている。絶対に露見するとなぜわからなんだ。)
男はなにか苦いものを飲んだような顔になった。得意げにしゃべり、かしこぶっている自分の阿呆面に辟易した。
(歳はとっても中身は餓鬼のままだった。だからこんな目にあったのだ。)
男はごろりと砂浜に横になった。眼は穴を覗いたままだ。
また景色が変わった。この島だ。しかしそれは今ではなかった。船がこの島を離れてゆく。
あの船には男の仲間だった二人が乗っている。ともにこの島に流されたが、二人は許されて都に戻るのだ。男一人を残して。
男は船を追いかける。恥も外聞もなく泣きわめきながら、砂を蹴散らして海岸を走る。もう声が届くはずもないのに叫び続ける。お願いだ、俺も乗せてくれ。なんでもする。助けてくれ。
地団太を踏み、鼻水をたらし、跳びはねながら船を呼ぶ男。そんなかつての自分の姿を、男は穴越しにじっと見つめていた。あんなに悲しかったのに。あんなに悔しかったのに。
男はやがてふ、ふふ、と笑い出した。自分というやつはなんて滑稽で哀れな人間なんだろう。男は可笑しくてたまらなくなった。くく、ふふ、うふふ。波が男の体を洗うように打ち寄せたが、男はいつまでも寝っ転がって笑い続けた。
絶海の孤島、永遠の孤独。すべて世は事もなし。